自分が「村人A」だと気づいたとき、どうするか

演劇の台本などに書かれる「村人A」。

ごくわずかな登場シーン、セリフだけが用意され、

登場人物として名前すらありません。

 

そのような役柄を演じる人は必ずいます。

そして、人生に置いて自分がその「村人A」だと気づいたとき、

何をどうすればいいのでしょうか。

 

主役を演じる人は、何か輝くものがあるからだと思います。

世界を動かす人、一流タレント・スポーツマンとかそういうのではなく、

自然と人が寄ってくる、注目されているような人です。

それはその人が魅力的な何かを持っており、

それは見た目だとかそういう問題ではないんだと思います。

 

社会人になって、「仕事のできる村人A」はどうなるのでしょう。

仕事はある程度できるから、重宝されます。

しかしそれは、あくまで人間的魅力ではなく、

ただの便利な人という認識でしかないでしょうね。

 

困ったことがあれば、あの人に頼めば良いか。

面倒だな、誰かやってくれないかな。

 

その矛先が「村人A」なんですよね。

利用されることと頼りにされることは違いますから。

 

デメリットばかりの「村人A」ですが、

「村人A」は主人公に好かれやすい傾向があります。

 

主人公の友人やライバル、ヒロインや同じく他のモブキャラ。

これらには「村人A」は見向きもされません。

でもたまに、「主人公」には好意を持たれることがあります。

それはきっと主人公にはない、「村人A」の魅力があるからです。

 

「村人A」は決して目立たず地味に生きる。

そして死ぬときは周りに迷惑をかけて盛大に死ぬ。

 

そういう生き方を心がけたいですね。

逮捕された容疑者は匿名報道にするべきだと思う

逮捕された容疑者は匿名報道にするべきだと思う

 

逮捕された容疑者をマスゴミFacebookやら同級生やらから写真を提供してもらおうと

必死になっているのが本当に腹立たしい。

知り合いの写真をマスゴミに提供する人は報復に気をつけるべきかもしれない。

 

なぜ容疑者の段階で名前と顔を晒す必要があるのか。

仮に有罪判決が出たとしても、晒す必要はない。

加害者にだってプライバシーはある。

当人同士の問題であり、第三者がとやかく言う権利はない。

 

そういう発言をすると噛み付いてくる日本人が多いことに恐怖を感じる。

自分の発言がさも正しいかのような反論をしてくるのだ。

死刑賛成派に多いこの現象。

ステレオタイプの生き方しかできず、常識を疑う力が衰えている人種。

 

そもそも法律は憂さ晴らしや、復讐のために存在しているわけではないと思う。

 

死刑の先に何があるのか。

見たくない、これ以上考えたくないと放棄し、

臭いものに蓋をする腐った日本人たち。

 

刑期を終えて出所した人を率先して雇う会社経営者や、

社会復帰を手助けする人たちを心から尊敬する。

そういった人たちにはなぜか光がなかなか当たらないけれども。

小さく生きて大きく死ぬ

最期くらい迷惑をかけて死にたい

独りひっそり迷惑をかけずに死にたいと思う人も多いだろうけど

 

生きている間は人に迷惑をかけず、目立たず、木陰でひっそり生きてゆく

死ぬ時に生前の鬱憤が爆発する

 

小さく生きて大きく死ぬ

 

自分独りで死んでたまるか

迷惑をかけて周りを巻き込んで死んでやる

そう思う人が増えて欲しい

貧乏より惨めなのは無名であること精神の日本人たちへ

海外ドラマ『glee』にて印象に残った言葉。

自己顕示欲バリバリのレイチェル・ベリーがナレーションの中で言った言葉だったと思う。

「貧乏より惨めなのは無名であること」(「貧しい」だったかもしれないけど)

 

今の日本人にそのまま送りたくなる言葉。

やれ、インスタ蝿だの、ユーチューバーだの、踊ってみた、歌ってみただの・・

ネットを使ってお手軽に誰もが情報発信ができるようになったのは、すごくいいことだと思うけれど、過剰な考えになってきている人が多いと思う。

 

まるで芸能人かのように、有名人気取りの自己顕示欲の塊な人が増えたなぁ、と。

増えたというより、目立つようになったのかもしれないが。

 

いつか自分がすごく恥ずかしいこと、惨めなことをしていると気づく人もいれば、気づかずそのまま突き進み、勘違いした痛い人のままでいる場合ある。

僕からすると、有名になんかなろうとせず、水面下で暗躍すればいいのだ。

スポットライトを浴びるより、裏方としてあれこれと活動してた方が、

目立たず美味しい思いもできるのになぁ。と思う。

 

だけど今の日本人は、とにかく目立ちたい、有名になりたい

という哀れな感情に流されている人ばかりだ。

そんな人たちが1日でも早く、哀れなことをしていると気づいてくれることを祈る。